理絵 PART1 PART 1

 加藤理絵は、日本を代表する大手コンピューターメーカー、FJEの本社営業本部第三部門第一課に所属している。仕事の内容は、メーカー及び商社に対するシステム提案および販売だ。FJEの営業本部の組織は、対象業種ごとになっており、第一部門は官公庁および通信、第二部門は金融、第四部門は流通、第五部門はその他大手企業、をそれぞれ担当している。

 入社3年目の24歳でしかも女性の理絵が、本社のしかも営業本部に所属しているのは、かなり異例な人事と言えた。営業本部はFJEにとって重要部門の一つであり、事務系の幹部の大半が経験しているエリートコースだった。入社3年目であれば、支社の営業部で、全国レベルまではいかない企業を担当したり、本社だとしても、開発本部でSE的な仕事をしたり、顧客サービス部で一般ユーザの苦情対応等をしているのが普通だ。

 このような人事が可能になったのも、近年の市場の激変を受け、従来どおりの年功序列型では厳しい競争を勝ち抜けないという上層部の判断によって、「特別育成コース」が設置されたからだ。今までもエリートコースというのは存在していたが、それでも一定年数が経たないと職能級が上がら無いという制限があった。それを、「特別育成コース」対象とされる社員については、制限を大幅に緩和したのだ。理絵と同期に入社した800名のうち、30名は今年中に早くも係長にさせる計画であった。

 「特別育成コース」というのは人事部内部での表現であり、公にはされていない。そんなことをすれば、そのコースから漏れたものの意欲が低下する恐れが大きいし、「頑張れば誰にでもチャンスがある」という建前に齟齬を生じるからだ。しかしながら、その人事上の待遇を見れば、理絵達が特別な存在であるのは同期の誰から見ても明白だった。

 もちろん、理絵にはそのような待遇を受けるだけの能力があった。私立大学で全国トップレベルのK大学経済学部をオール優で卒業し、入社直後の新入社員合宿研修においても人事の評価は最高に近かった。海外への留学経験は無いが、研修中に行われたTOEICでも900点をたたき出した。

 さらに、理絵が飛び抜けているのは、その美貌だった。K大学在学中には、K大史上最高の美女、とまで謳われたその美貌には、入社後にさらに知的な磨きがかかっていた。k大生の頃は、男に声を掛けられるのがわずらわしくて女友達と一緒でなければ街にはでれなかったが、今では男の方で圧倒されてしまうのか、そのようなことは無い。その代わり、モデルにならないか、という誘いが多くて困惑してはいたが。

 理絵は、経済学部の学生らしく、もともとは金融関係への就職を希望していた。大学で学んだ経済理論を活かして活躍したかったのだ。しかし、そこには大きなネックがあった。理絵の父親は日本最大の銀行、M銀行の重役なのだ。父親が情実入社と言われるのを嫌ってM銀行への就職は認められなかったため、理絵は他の大手銀行をほとんど受けたが、どこも理絵の父親について知ると、恐縮しながらも断りの返事をするのであった。

 やむなく理絵は、他の業種を回ることになったが、大半は似たような反応だった。コネでも無いのに大銀行の重役の娘を採用する、というのは企業にとってもリスクが大きいのだ。コネで入社させたのなら、何らかの見返りが期待できるが、そうで無い場合は、何らかのトラブルが起きた場合に不利な扱いを受けることになりかねない。中小企業であれば、そのようなことよりも理絵の能力を買うだろうが、日本を代表する有名企業以外に入ることは理絵のプライドが許さなかった。

 FJE以外に理絵に採用意欲を示した数少ない例外は、テレビ局だった。あまりその気も無く受験した理絵は、その美貌と知性に惚れ込んだ担当者によって、いきなり幹部に引き合わされ、アナウンサーとして内定を出されそうになった。どうせ落ちると思っていた理絵は、断るのに苦労したものだ。

 FJEが理絵の採用を決定した理由は二つだった。一つは、メインバンクのT銀行の経営状況が怪しくなり、M銀行との関係を深めようと画策していたことだ。理絵を採用することが少しでもその役に立つならFJEにとっては大きな意味があった。もう一つは、理絵の類い希な美貌だ。道ですれ違えば、男の誰もがその日一日特したような気分で過ごせる程の美しさと、輝かんばかりの笑顔。理絵には告げず、FJEは入社ごの配属を秘書課と決めて採用した。

 FJEにとっての誤算は、理絵の仕事への意欲が予想以上に高いことだった。新入社員研修時の面談で、人事はそれとなく秘書を進めたが、理絵は断固として営業部への配属を希望したのだ。自分の能力と営業への適正を力強く主張する理絵にさしもの人事も手を焼いた。確かに、研修での成績はトップクラスであり、人間性に対する同期からの評価も高かった。それでも普通なら、何とか理由をつけて予定通りの人事を行うところなのだが、ここで理絵の父親の存在がネックになった。M銀行との交渉はヤマ場にさしかかっており、もしこんなことで交渉が挫折したら、人事部長のキャリアにも致命的な傷が付きかねない。

 希望どおり支社の営業部に配属された理絵は精力的に仕事をした。その才能と美貌と努力により、理絵はわずか1年でその営業部を支える存在となってしまった。当然、理絵は「特別育成コース」の対象候補となり、本社の営業部長の引きによって本社営業部に配属されることとなった。

 さすがの理絵も、この人事には緊張した。営業本部第三部第一課と言えば、伝統ある重要部署だ。しかも、2年目で配属された者など、自分以外には数えるほどしかいない。第三部で周りを見回しても、入社4年目の者が最年少で、特別扱いをされた理絵を見る眼はどこか冷たかった。理絵は最初、いかに先輩の機嫌とプライドを損ねずに成果を上げるかに苦労したものだ。

 もう一つ、理絵を悩ませたのは、第五課の存在だった。第三部は第一課から第五課まであるが、実際に日本の主要メーカーを相手に営業活動を行っているのは第四課までだ。第五課の役割は、よく言えばサポート、またはバックヤードだが、口の悪い者には雑用係と呼ばれているような仕事だった。確かに、その仕事の内容は第四課までの社員の出張の準備などの庶務的なものが中心であり、顧客に関係するのは接待の宴会での盛り上げ役を依頼された時だけなので、それも仕方ないかもしれない。
 ただ、そこに配属されているのも、理絵よりはるかに年次が上の一般職なのだ。10人中3人が女性だが、それぞれ27歳、28歳、29歳であるため、理絵としては雑務を頼むのは非常に気を使ったものだ。

 それ以外に第三部には理絵と同年代の女性がいたが、それは各課に1名ずつあてられている人材派遣だったので、どうしてもその間には溝が生じていた。かたやK大卒で大企業FJEのエリートであり、方や名も無い短大卒の人派ではそれも仕方が無かった。

 しかし、その様な中でも、理絵は持ち前の努力と明るさで頑張り、仕事の上でも成果を上げ、職場にも溶け込んでいた。いや、溶け込んでいるように見えた・・・

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 その水曜日、理絵は憂鬱だった。
(今日は接待かあ。しかもあのスケベおやじと・・・はあ)
何とか欠席できないかと何度目かの思案を巡らせたが、名案が浮かぶはずも無かった。理絵は諦めて、仕事を切り上げ始めた。

 今日の接待の相手は、女性用下着でトップシェアを誇るナコールだ。ナコール社の社内システムは以前から、ライバルNOSが請け負っていたが、今回、理絵を中心とした第一課の根強い努力により、次期システムのコンペに参加できそうになっていた。

 通常は特に問題が無い限りシステムの会社を変更することはないので、コンペ方式にさせた、ということだけでも営業部にとっては大きな成果であった。それだけに、今日の接待での失敗は許されなかったが、理絵にとっては相手が悪かった。

 ナコールのシステム担当課長の佐藤は、営業経験が長いらしくがさつで、しかも女性に対する偏見が激しかった。担当を任された理絵が説明に行っても、しばらくは男を連れて来い、と言って相手にしてもらえなかった。理絵の能力を認めて何とか話を聞いてもらえるようになっても、ともすれば脱線し、理絵の私生活や下ネタの話になった。また、説明に行く度に飲みに誘われたが、やんわりと断るのに理絵は苦労したものだ。

 しかし、今日の飲み会ばかりは断ることができない。コンペへの参加を決定して頂くためのだめ押しに、理絵の上司の課長から設定したものだからだ。一対一で飲むわけではないので、さすがに無茶なことはされないだろうが、あんなスケベ親父に愛想を振りまかなければならないというのは理絵にとって屈辱的なことだった。
 (はぁ・・・でも私が担当している会社だし、もし契約が取れれば、もう誰にも文句は言われなくなるわ。今日一日だけ辛抱するのよ)理絵はそう言い聞かせて自分を慰めた。

 約束の7時に、理絵達はナコール社に到着した。FJE側のメンバーは、第一課課長の黒木吾郎、係長の松本三郎、人材派遣の中村千香、第五課の係長大友邦宏、社員三宅雄三、本木洋子、中村真奈美、人材派遣の萩原昌子に理絵を加えた総勢9名だった。

 「ごめんね。今日は付き合ってもらって。だけど、今日の飲み会は憂鬱よねぇ。」
理絵はすまなそうに人材派遣の千香と昌子に話かけた。普通、人材派遣が会社の接待の飲み会に参加することなどあり得ないのだが、女好きの佐藤のために、特に課長が呼んだのだ。

 「いいええ。加藤さんのお役に立てるんでしたら、喜んで。」
「そうですよぉ。水くさいですよぉ。それより、どうせなら楽しみましょうよ。」
千香と昌子は屈託の無い顔で笑った。理絵は救われた気持ちになる。

 「おい加藤、何言ってるんだ。今日は遊びの飲み会じゃないんだぞ。何が憂鬱だ。先方の気分を害するようなことがあったら許さんからな。」
すかさず課長の黒木からの叱責が飛んできた。黒木は留学帰りの34歳で、営業部きってのエリートだ。しかし、この手のエリートにありがちな結果重視の男であり、ともすれば成果を挙げるためには手段を選ばない面があった。その黒木にしてみれば、接待が憂鬱などという言い草は許し難いものがあるのだろう。

 「そうよ、理絵ちゃん。お仕事なんだからね。我が儘言っちゃ駄目よ。」
「昼間だけが仕事じゃないんだからね。やっぱり若い娘はこれだもんねぇ。」
ここぞとばかりに真奈美と洋子が尻馬に乗って理絵をなじった。同じ本社とは言っても理絵の第一課に対するコンプレックスは根深いものがあった。しかも、年次が遥かに下の理絵の方が、職能級が上なのだ。特別育成コースの理絵は、あと一つ上がれば本社の係長なのだ。

 軽い気持ちで言った一言で散々な眼に遭った理絵は、(何よ、今日の接待にこぎ着けたのは、ほとんど私一人の力じゃない。第五課なんて、これが本業みたいなものでしょう)と思いながらも神妙な顔をするしかなかった。

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 接待は順調に進行していた。用意した一次会の料亭はFJEとして重要顧客を相手にする場合のみ使って良い店とされているため、味の方は申し分なかった。また、佐藤のために揃えた女性陣は皆、平均以上の容姿の者ばかりだったため、ちやほやされた佐藤は上機嫌だった。佐藤の下の係長の宮下、社員の森田も満更ではない様子だ。理絵も必死に愛想笑いを作って酒を注ぎ回った。

 首尾良く一次会が終わり、黒木が二次会のカラオケへ案内しようとしたとき、佐藤が言った。
「あのな、黒木さん。実は二次会に行きたい店があるんだけど、いいかな?」

 接待を受ける者としては、常識では考えられない発言だった。しかし、重要案件がかかっている黒木に拒否することが出来る筈も無かった。
「もちろん、結構ですよ。どちらのお店でしょうか?」
如才ない笑顔を崩さずに佐藤に尋ねる。

 「うんうん、すぐ近くの店なんや。いい感じのスナックやで。ちょっと、新橋までいきましょか。」
怪しい大阪弁もどきで佐藤は答えた。

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